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Salif Keita / “SORO” ~洗練と圧倒のアフリカ作品


西アフリカ・マリ出身の Salif Keita(サリフ・ケイタ)のアルバム「“SORO”」を聴いての第一印象、それは「アフリカ音楽も随分洗練されてきたな」でした。


1983年の King Sunny Adé のアルバム「Synchro System」に感心して以来、僕はしばらくの間、立て続けにアフリカの音楽を聴き続けました。それらは、ジャンルとしてはファンクなどの西洋音楽だったり、欧米のアーティストがプロデュースしていたり、リン・ドラムなどの機材が導入されていたりと、要は、西洋的な土台が目立つ作品でした。


そのうえで、これらにはどこか意図的な土臭さも感じられました。穿っていえば「あえてアフリカを強調している」とも思えるサウンドだったのです。


そうした中、'87年に “SORO” を聴いたところ、たしかにこの作品でもアフリカは強く表に出て来ていますが、それは上記の作品群とは違い、とても洗練されたものに聴こえました。アフリカと西洋を継ぎ足し、1+1とした以上の結果を出している作品のように僕には感じられました。


1曲目「WAMBA」のイントロは、ブーンと尾を引くベースに、ブラスが続く展開です。ソウルやファンクのイントロのようです。


一方、これに続くエレキ・ギターのアルペジオ、ドラムやパーカッション、コーラスは、あくまでアフリカ的なフレーズ、リズムです。


とはいえ、そこに土俗的な感じは希薄です。ロック的なギター・ソロやシンセサイザーをうまく溶け込ませているからでしょう。


Salif Keita のボーカルもそこに加わります。すこししゃがれていながらも、張りがあり、地の底から響いてくるような声です。呪術的とも、魔術的ともいえる魅力を感じます。


なお、このアルバムの全ての曲は、Salif Keita 自身の作詞・作曲によるものです。メロディーの美しさと声の相乗効果により、まさに圧倒される印象です。ちなみに、彼の音楽すべてに共通する最大の魅力は、彼の「唄」だと僕は思っています。


2曲目「SORO(AFRIKI)」の初めと終盤は、1曲目「WAMBA」と同じようなミドル・テンポとなっています。


しかし、中盤はアップ・テンポです。ビッグ・バンドの分厚いブラスのサウンドに、トランペットやサックスなどの短いソロが加わります。雰囲気としては、スウィング・ジャズが展開するといったところです。


加えて、コーラスと Salif Keita の唄の間に入るアフリカ的なコール・アンド・レスポンス(掛け合い)が、曲全体を効果的に盛り上げています。


以上の2曲同様、このアルバムでは、全体を通じて、十分にアフリカ的ではあるものの、いわゆる土俗的とはいえないサウンドが続きます。


なおかつ、曲調に関わらず、それらはクールでシャープです。この点が、さきほどの「あえてアフリカを強調している」作品群とは異なっており、レベルの高い洗練度をまさに感じさせるところです。


そこで、このアルバムのクレジットに僕は注目してみました。


まず、全曲にわたり、作詞・作曲、およびリード・ボーカルは Salif Keita です。繰り返しますが、彼はマリ出身のアフリカ人です。


加えて、名前からの推定ですが、キーボードとブラス以外の演奏のほとんども、アフリカ系のメンバーのものと思われます。


もっとも、このアルバムでは、沢山あってもよさそうなアフリカの民俗楽器の響きはあまり聞こえてきません。タマ(小型のトーキング・ドラム)が2曲で使われるのみです。あとは、コラ(竪琴)を模したシンセが1曲に入るくらいです。


一方、アレンジは、どちらもフランス出身の Jean-Philippe Rykiel(ジャン=フィリップ・リキエル)と François Bréant(フランソワ・ブレアン)です。3曲ずつを担当しています。2人とも、写真を見る限りアフリカ系ではなく、ヨーロッパ系の人と思われます。それぞれが自身のアルバムを発表し、高い評価も受けているようです。


なお、このうち François Bréant は、このアルバムのプロデューサーでもあります。名前を検索すると「映画音楽作曲家」との肩書も見えてきます。柔軟で幅広い音楽性が想像される人物です。


すなわち、“SORO” は、僕の見るところ、この2人のアレンジャーがカギを握っている作品であるような気がします。


Salif Keita の生み出すメロディーやボーカルを彼らが自身のバックグラウンドに上手に融合させることで、過去にはあまり無い、とても洗練された「アフリカ作品」に仕上がっているというのが、僕の勝手な見方です。


録音もミックスも、パリで行われています。ミクサーの名前から察するに、スタジオ・ワークには多くのヨーロッパ系の人々が関わっていると想像されます。“SORO” は、そうした環境の中から、レベルの高いアフリカと西洋のコラボレーション作品として生まれて来たものに感じられます。


なお、その後しばらくして、2006年、僕は Salif Keita の音楽と意外なかたちで再会しました。テクノ・アーティスト Luciano が、Salif Keita の曲「Yamoré」をリミックスした作品に出会ったのです。(Luciano / Yamoré Remix)


Salif Keita 独特のボーカルに、このとき久しぶりに圧倒され、懐かしくも新鮮な感動を覚えました。


ちなみに「Yamoré」の(リミックスではない)原曲は、2002年の Salif Keita のソロ・アルバム「Moffou」に収録されています。



Salif Keita /  “SORO”(1987年)


1:WAMBA

2:SORO(AFRIKI)

3:SOUAREBA

4:SINA(SOUMBOUYA)

5:CONO

6:SANNI KEGNIBA


CD、LP、配信版があります。LPでは1~3がA面、4~6がB面です。


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