エレピの音から入る短い1曲目に続き、2曲目はベースだけが固定されていて、ドラム、シンセ、パーカッションの断片的なフレーズが飛び交う、複雑でセカセカさせるくらいの曲調。
3曲目は一転して、ドッシリ、ユッタリしたビートが淡々と続く展開。
4曲目は再び速めのビートですが、様々なパターンが入れ替わり立ち替わり、あらわれては消えてゆく、典型的なテクノ的展開。
B面の1曲目はストリングスや管楽器が主体の短い曲。2曲目以降は再びテクノ的な曲続き、最後はピアノの短い曲で終わります。
1つ1つの曲は、テクノの基本となるミニマルな要素で構成され、ボーカルや楽器のソロもありません。
しかし、様々なパターンやフレーズを巧みに配置し組み合わせて構成されていて、曲ごとにリズムやサウンドも異なり、単調な感じはありません。
また、全体をとおして特徴的なのは、音の質感です。当時のEDM系などのクリアな音とは正反対に、少しくぐもっていてザラザラした感じで、新鮮に聴こえました。
ところで、この作品「CHANCE Of RAIN」は女性アーティスト Laurel Halo(ローレル・ヘイロー)が、クレジットをみる限り一人で創った作品です。
いつの頃からか、音楽サイトやCDのライナー・ノーツなどで「宅録女子」という言葉を目にするようになりました。
正式な定義(?)は目にしたことはありませんが、自宅で安価な汎用機材を使い、一人で曲をつくりあげる女性アーティストのことだと思われます。彼女はその典型の一人でしょう。
しかし、この作品から「女性らしさ」は全く感じられません。
同じHyper Dubというレーベルからは、Ikonikaという「宅録女子」の作品も出ていますが、そのサウンドも女性らしさを感じさせるものではありません。
そして、それぞれ、とても個性的なサウンドです。
Ikonikaの場合、CDやレコードに顔写真が載っていなかったので、長い間女性と分からずに聴いていて、時々出てくる本人のボーカルも「ゲスト・シンガーの声だろう」と思っていたくらいです。
メンバーを集めてバンドを作る必要がなく、スタジオという共用の空間に入る時間も少ない「宅録」というスタイルは、性別という社会的な属性をアーティスト自身が意識させられることから自由なため、個人がそのまま強く表に出る。
女性らしい音に聴こえないのはそのせいかもしれません。
それにしても…、「デトロイト・テクノ」の頃から、いやそれ以前のヒップ・ホップ黎明期から「宅録」はごく普通のことで、女性の宅録も珍しくはなかったはずです。
にもかかわらず、何故最近になって、ことさらに「女子」を付けた言葉が出現したのでしょうか?
このアルバムの日本版CDのライナー・ノーツには、「宅録女子」の元祖あるいはアイコンとされている、Grimesの以下のような発言が引用されています。
「数年前、Pitchforkを見ながら友だちとこんな話をしたのを覚えている。『色々なアーティストが掲載されているのに、トップ・ページに掲載されているは男ばっかりだ』って。正直言ってドキッとしたわ。」
また、女性アーテイストの活躍にふれた以下の記事にも、「音楽ライターのブリアナ・ヤンガーは(中略)ヒップホップのエコシステムは『女性の進出を拒んできた』のだという」とあります。
→「2019年の音楽シーンは女性アーティストが支配し、そして“解体”する / WIRED」
このように、未だ男性優位の音楽シーンに風穴をあけるように、近年「宅録」系の女性アーティストの進出が目覚ましく、存在感が増している。
「宅録女子」という言葉は、そうした状況を反映した、ポジティブな意味を持つ言葉なのかもしれません。
なお「宅録女子」とは全く別の話ですが、僕が「CHANCE Of RAIN」を気にいったもう一つの理由は、その収録時間です。
レコードA面は23分、B面は21分で合計約44分。昔のLPサイズで、長過ぎもせず短過ぎもせず、音楽を聴き流すことなくジックリ楽しむには、ちょうどよい感じです。
一時期、60分前後という長さのアルバムが普通でしたが、最近は、このくらいの長さのアルバムが増えているようです。
LAUREL HALO / CHANCE OF RAIN(2013年)
A1:Dr.Echt
A2:Oneiroi
A3:Serendip
A4:Chance Of Rain
B1:Melt
B2:Still/Dromos
B3:Thrax
B4:Ainnome
B5:-Out