初めて清水靖晃のアルバムを買って聴いたのは、1983年の「北京の秋」。FM東京の「ジェット・ストリーム」で3曲がオンエアーされたのが、キッカケでした。
音楽雑誌で「今、日本のミュージシャンで最も“スゴい”と言われることが多いのが清水靖晃」と書かれていたことも影響しています。
その頃あまり深く音楽を聴いていなかった僕でも、オーケストラの生音とドラム・マシンを含めたエレクトロニクスが融合した「北京の秋」のサウンドが、どれほどスゴいかは、すぐに分かりました。
翌年のアルバムでTrevor Hornがサンプリングした(=GRACE JONESの項を参照)のも、リスペクトの表れでしょう。
翌84年にかけて、彼の過去のアルバムも買い、聴きまくりました。83年のマライア名義の「うたかたの日々」、82年「案山子」、81年「IQ179」、79年「FAR EAST EXPRESS」などです。
その全てが斬新で意表をつきワクワクさせる内容で、一枚ごとに、違う人が創ったのではないかと思えるほどサウンドも異なっていました。
「日本のミュージシャンで最も“スゴい”と言われる」という評がウソでもおおげさでもない、と思ったものです。
そのため、次回はどんなアルバムを出してくれるのか、と心待ちにしていたのですが、待てどくらせどリリース情報がない。
ラテン音楽を素材にしたその名も「LATIN」というアルバムを録音した、との情報はありましたが、その発売情報もない(これは結局91年にリリースされました)。
禁断症状的な状況で過ごすうちに1984年も終わり、翌85年5月にようやく新作「STARDUST」が発売されたのですが…
これがアルバムではなく、45回転の3曲入り12inch。約21分、90年代くらいの用語で言えばMaxi-Singleのボリュームでした。
しかも、そのサウンドがあまりにも奇妙で、当時の僕を戸惑わせ、むしろ「短くてよかった」と思えるくらい、聴いていて疲労感をおぼえるものでした。
A面は唄ものですが、とにかく変わっている。
シンバルもなく音数が極端に少ないドラムとベースがリードする12拍子のユッタリしたグルーブ。
奇妙に尾を引くピアノとサックスのエコーと音処理。モノラル録音。
「退廃的」「デカダンス」という言葉がピッタリくるシンセの音色、ボーカル、歌詞。僕は、退廃的・デカダンスという言葉の意味をこの曲でハッキリと理解しました。
さらに、B1はピアノとサックスによる超低速の「STARDUST」。A面よりさらに奇妙で、水の中ででも演奏しているようなエコー・音処理。
B2も、超低速の「HUMORESQUE」。最後の方に小さくチラっと入ってくるオーケストラサウンド(シンセかサンプリング)も、奇妙な感じです。
何回か聴きなおしましたが、楽しめるものではありませんでした。そして翌86年も清水のリーダー作は出ませんでした。
この間、彼の活動が不活発だったというのではありません。
さまざまなミュージシャンの作品に編曲やプロデュースで参加しています。それぞれ面白い作品でしたが、一方で「このままプロデュース業に専念してしまうのではないか」という危惧もありました。
そのため、87年の「SUBLIMINAL」を聴いたときは、霧が晴れたように感じたものです。「案山子」や「うたかたの日々」に直結するように思える作品です。
次いで翌年には超先鋭的な日本語ポップス「DEMENTOS」、89年は「ADUNA」と、毎年アルバムが出ていてます。
一方で、1990年には「SHADOW OF CHINA」が発売されています。
柳町光男監督の映画のサウンド・トラック。「STARDUST」によく似た、ユッタリとしたリズムと音の響きを感じるさせる音楽でした。
「STARDUST」的デカダンスのテイストは、96年の「X」という作品に色濃く出ています。コチラも、りんたろう監督のアニメ映画のサントラです。
同じ96年には、「場」による音の響きを追求した、Bachシリーズの第1作が発売されています。
どれも最初は抵抗感があったものの、何回か聴くうちに段々好きになってくる作品でした。
90年以降のこれらの作品を聴いているうち、「STARDUST」こそ、この方向性のプロトタイプではないか、と思えてきました。そしてその頃には既に、「STARDUST」を聴いて楽しめるようになっていたのです。
YASUAKI SHIMIZU & SAXOPHONETTES:STARDUST(1985年)
*レコードジャケットでは「SAXOFONETTES'」(写真参照)という表記ですが、CDでは上記のとおりです。
A1:ELLES SE RENDENT PAS COMPTE
B1:STARDUST
B2:HUMORESQUE